[草稿]タグのついているものは、単なるラクガキです。
あとでまとめるためなので、あまり真に受けないでください。





そもそも、山本寛というアニメ制作者は、語るに値する人物なのか?
このことを初めにはっきりさせておかないと、擁護しようにも力が入らない。
以下の考察から導きだされる結論によっては、このブログの存在意義が消滅することもあり得る。


「ヤマカンのことが好きだから、好きなのだ」


これではダメだと思う。
このような貧弱な動機で擁護したとしても、その言葉には説得力がないだろう。


私は、山本寛に興味がある。
だから、まとめwikiを運営している。
自身のなかの「山本寛に対する興味」を分解してみたら、
大きく2つの要素に分かれた。


(1)絵コンテ・演出に対して。
(2)ヤマカンなら何かやってくれるという、きわめて不明確な根拠による期待から。


ここで、ふと気づく。
世間(99%がネット上・オタク内)のヤマカンへの「評価」は、多くの場合は(2)なのではないだろうか。


「サムデイインザイレンが、なんだかわからないけど面白かった。あれ、長回しっていうのか。なんかスゴイ」
ハルヒのEDダンスは……演出・絵コンテ:山本寛→天才! なんかスゴイ」
らき☆すたのOP……監督・演出・絵コンテ:山本寛→天才! なんかスゴイ」
京都大学卒……東大の次に頭いいんだよね。なんかスゴイ」
「カイエデュシネマ……なにそれ?でも、知的な感じがする。なんかスゴイ」
かんなぎ第1巻の売り上げ15000枚……人生(笑)には到底及ばなかったけど、なんかスゴイ」
「次回作はオリジナル……あんなに毒舌はいてるのに仕事あるんだ、なんかスゴイ」


端的に言えば、山本寛という人物は「なんかスゴイ」で評価されていることが多すぎる。
「なんかスゴイ」って「なにが、どう、スゴイ」のか。それを丁寧に説明したほうがいい。


山本寛というアニメ制作者が「なんかスゴイ」で語られることが多い理由は、まず間違いなくTVアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の商業的成功によるところが大きい。
「よるところ」と言うか、ハルヒのヒットのせいで、山本寛というアニメ制作者に対する評価軸がブレにブレ、ぼやけ、評価する者の目を曇らせていると思う。


これは、わたしの独断と偏見で言うが、「ハルヒ」制作における山本寛の仕事でもっとも評価すべき点は、エピソード00にまつわる構成や演出の妙でもなければ、サムデイインザレインでもなければ、ライブアライブでもなければ、EDダンスでもない。参加声優に対する積極的な現場演出だと思う。(要・参照資料。たしか涼宮ハルヒの公式のインタビューにそのような事が記述されていたはず

これは、主人公とヒロインの2名しか登場しないという構成の「TVアニメかんなぎ第1話」における「本当は、収録スタジオに戸松遙と下野紘のふたりきりにして録りたかった」という本人談のエピソードからも見てとれる。(なにか都合があって3人で収録せざるを得なかったと言っていた……はず(要確認。2人きり収録が実現すれば、第1話はもっと緊迫したものになったと思う。どんな事情があろうと、これは山本寛の詰めが甘かった結果だと私は思っている。あとヤマカン自身は下野紘の採用に難色を示していたらしいが、それも詰めが甘かった。なぜ押し切られてしまったのか。)(要・参照資料。かんなぎDVDオーディオコメンタリ


熱意というのは、こと人間対人間であればかならず伝わるものだと思う。
そして、アニメーション制作に対して山本寛という人物は、並々ならぬ熱意と情熱と野望をもっていることがわかる。なぜわかるかといえば、DVDや電波を通して、視聴している私にそれが伝わってきたからだ。(根拠が貧弱するぎるので、要修正


ハルヒの半分は、山本寛の情熱で出来ています。
いや、よくわからない。ちょっとゴロがいいから言ってみた。


とにかく、あなたがTVアニメのハルヒを「面白い」と思ったのなら、それは原作者の谷川流や監督の石原立也京都アニメーションのスタッフや劇伴担当の神前暁、担当声優などの努力と才能と実力によるものだ。でも、それらをうまく引き出したのは、ヤマカンの情熱だ。


山本寛に才能があるかどうかなんてわからないけれど、ヤマカンがアニメーション制作というものに対して、並々ならぬ「情熱」をもっている人物であることは、ここに断言できる。でなければ、あんなにインタビューで自分の夢や希望や妄想を語れるはずがない。


情熱とは、おおむね「あつくるしい」「おしつけがましい」ものだ。
ハルヒには、そんな「あつくるしさ」「おしつけがましさ」があった。
エピソード00での無駄な自主制作映画再現、長門長回し、ライブでのハルヒの顔面崩壊、EDのなんともいえない振り付けのダンス。制作者の嗜好がイヤでも伝わってくる「あつくるし」くて「おしつけがましい」ものだった。鼻につく、と言い換えてもいい。

私の場合、最近では「天元突破グレンラガン」の監督である今石洋之に、この情熱を感じた。
情熱を感じたということは、つまりは「おしつけがましさ」を感じたということだ。
グレンラガンは、私の大嫌いな作品であり、好きな作品でもある。
吉成曜の考案したデザインを却下して採用されたガンメンの垢抜けないデザイン、「熱さ」を誇張した物語展開、最終話近くの「自爆要員」として生み出された脇役たち。そして、アニメスタイルでのインタビューにおける発言内容。鼻につくし、吐き気さえ覚えた。それでも、私はグレンラガンが好きでもあり大嫌いでもあるし、時間があればもう1度観なおしたい作品でもある。


鼻につくもの、というのは、嫌われる一方で、興味の対象にもなりうる。


山本寛の情熱、すなわち「おしつけがましさ」が明確に確認できたのは、
灼眼のシャナ第2シリーズの第2期オープニングが最後だったと、個人的に思う。


アニメ「かんなぎ」からは、山本寛の「おしつけがましさ」はあまり感じなかった。
感じたのは「不自然さ」「チクハグ感」が多かった。特に後者を強く感じて、観ていていたたまれなかったことをよく覚えている。(ただし、カラオケ回の吉岡忍は、まったく自重していなかったのが面白かった。どれが彼のアイディアなのかは不明だが)


山本寛は、いまだ「アウェー」で試合をしている。
いまだ「ホーム」でプレーできないでいる。
ここでいう「アウェー」とは、京都アニメーション以外の制作環境。
つまり「ホーム」とは、京都アニメーションと同等の制作力のある環境・体制。


山本寛は、ことアニメ制作に関してだけいえば「自重」する習性がある。
をれを本人はインタビューなどで「保険」と表現している。
ハルヒ」は、そんな「自重」「保険」が、なんらかの偶然によって「あまり自重されなかった」作品だったように思う。かんなぎは、その対極にあって「自重しすぎた」作品だと思う。


八田夫妻は、利潤追求という観点から論じるなら、すぐれた経営者なのだろうと思う。皮肉ではなくて。京アニショップとか、すごい。
倫理的には、わからない、資料がない。ただ、そんな悪い人たちではないのでは?





つづきは、また今度。
長すぎるから、説得力皆無の主張があったり、論点が複数になっている。整理の必要あり。